さて、8月12日 中尊寺を後にして次に向かったのは”毛越寺”であります。この読み方がなかなか難しいですよね~普通は越をつうとは呼びませんよね・・・HPとパンフには次のように書いてあります。(毛越寺はモウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みませんが、越は慣用音でオツと読みます。従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。)
以下HPより抜粋
<毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。>
ここはやはり浄土庭園が有名であります。藤原氏の時代その栄華を極めた場所の代表なのでしょう。多くの伽藍を含む建物が失われた今でも大泉ヶ池を中心とするその庭園の景観は、圧倒されっぱなしでした。
その日は何か法事だったらしく、本堂に向かう参列はこちらの様式とは違い、女性はなにか白い頭巾を被っておりました。
ここもやはり、松尾芭蕉の有名な句碑が残されています。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
そして御朱印は、受付にて拝観料を払いすぐの御朱印所にていただきました。四寺廻廊の御朱印もこちらです。
そしてついでなのですが、毛越寺を車で5分ばかり行くと”達谷窟毘沙門堂 別當達谷西光寺”があります。
HP→
http://www15.ocn.ne.jp/~iwaya/
ここは、千二百年の昔、桓武天皇の勅により、坂上田村麿公を征夷大将軍として当時国府が押さえきれなかった蝦夷の征伐に関係する場所である。大将軍はここの窟に籠る蝦夷を打ち破り平定した。
その際大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護だと感じ入り、ここに108体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とした・・・なかなかの古い歴史にこの場所にロマンを感じずにいられない。
そして、その当時京都からさらってきた姫君を、悪路王らの蝦夷がこの場所に閉じ込めそれにまつわる悲しい歴史の背景を基に、「姫待不動尊」として祀ったものを後に清衡公が再建したものである。
毘沙門堂です。
岩面大佛です。
金堂です。
本堂と別當です。
そして姫待不動明王を祀る不動堂です。
それで、御朱印は2つ「毘沙門堂」と「姫待不動明王」であります。
そして、次は 源義経終焉の地「高館義経堂」へと車を走らせる。
来た道を戻り毛越寺を通り過ぎ、平泉駅方面に向かう。ナビどおりに走らせたのですが、入り口をなかなか発見できず。右往左往しました(汗)
ここは、先ほど行った毛越寺の管理であるようです。
詳細は以下のリンクで確認してください。
http://www.motsuji.or.jp/gikeido/
何れにせよ、歴史上の悲劇の地に立ち何を思うか・・・兄・頼朝に追われ、この地平泉に落ち延びた義経は三代・秀衡に匿われていました。しかし、頼朝の圧迫に耐えかねた四代・泰衡の急襲にあい、この地で妻子と共に自害したと伝えれているのだ・・・
ここからは、衣川の戦いで弁慶が立ち往生したといわれる衣川と北上川が合流するするその地を眺望できる素晴らしい眺めでもあり、当時で言えば大事な要害だったのだと思われる。
さらに時代をくだり、この地に松尾芭蕉と弟子の曽良が立ち、眼下に広がる夏草が揺れる様を眺めた芭蕉は、百年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を読んだのである。
三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし固め、蝦夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、かさうち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
夏草や 兵共が 夢の跡
卯の花に兼房みゆるしらがかな < 曾良>
御朱印は入り口受付にて頂戴しました。
これにて平泉の旅は終了。宿泊地の気仙沼に向かいました。